フュースリの作品の中には神話やダンテ、そしてシェイクスピアなどイギリス文学に題材を取ったものが多い。強い明暗と象徴的な色使いが絵の特徴ですが、技法的にはミケランジェロに負うところが大きい。ミケランジェロは神々の崇高さを、その肉体(フォルム)の力強さで表現していますが、フュースリは人間の内に秘めている恐怖心や幻想を、感性で表現しようとしたのです。
フュースリは、1741年チューリッヒに肖像画家の子として生まれました。若い頃は、絵よりも文学に興味があり、コレギウムでは教師のボドマー(ミルトン『失楽園』やシェイクスピア作品などの翻訳・紹介で名高い)に影響を受け、のちに骨相学者として有名になるラヴァーターと親交を深めます。ふたりは1762年にチューリヒの代官の不正を告発することから郷里を追われ、ベルリンに逃亡することになります。フュースリはボドマーや英国大使のつてを頼って1764年にロンドンに移住します。 翌65年には新古典主義の聖典、ヴィンケルマン『古代美術模倣論』の英訳本を刊行します。その後スイス時代から崇敬していたジャン =ジャック・ルソーに会い、67年に『ルソーの著作と生涯について』を刊行。美術だけにとどまらず思想や文学まで幅広い活動をしていました。しかし、官学派の巨頭ジョシュア・ レノルズから画家になるよう勧められ、本格的に「画家への道」を歩むことになるのです。1770年から8年間イタリアに滞在して、画家としての修業を積むが、古典主義的技法の習得に励むものの、頭の中はロマン主義表現に夢中だったのです。帰英したフュースリはサロンの中心的存在となり、1782年にはロイヤル・アカデミーにこの『悪魔』を出品しています。何故かその後にも、同じテーマで何枚も描いている。ダンテやシェイクスピア、ミルトンなどの文学作品をテーマに幻想的な絵画を描いていきます。99年にはロイヤル・アカデミー教授に就任し、詩人であり画家でもあるウィリアム・ブレイクと出会い、いい意味での「生涯のライバル」になります。フュースリとウィリアム・ブレイクは、その文学的傾向からか、描く絵には多くの共通点が見られます。